救荒食とは、食料不足となった時に利用される食べ物。 さらに、救荒植物とは、救荒食として利用できる植物の事です。 ※文字ばかりで済みません・・・ 飢饉についてザッと調べて見ました。 ※死者数については、当事は人数の把握が難しかった&国・政府などへ報告する際に実際よりも少なく報告していた・・・ などにより、諸説あるので参考までに。 日本では、・養和の飢饉(1181年):死者数約4万人。死体があふれ供養が追いつかず各所で異臭を放っていたと伝えられる。・ 寛喜の飢饉(1230年〜1231年):死者数不明。市中に餓死者が満ち溢れた。・ 長禄・寛正の飢饉(1459年〜1461年):死者数約8万人。・ 寛永の大飢饉(1640年〜1643年):幼児は川に投げ込まれ、路上で餓死した人は犬に喰われた。・ 享保の大飢饉(1732年):死者数約97万人。・ 天明の大飢饉(1782年〜1787年):死者数約140万人。死者の肉を食べるだけでなく、人肉を得るために人殺しも発生。・ 天保の大飢饉(1833年〜1839年):死者数約20〜30万人。犬に喰い千切られた手足が散乱、死体が川の水を堰き止めた。 など。 その他世界各地で起きた大飢饉の死者数は、・ 中国 1877年〜1878年 950〜1300万人、1960年代 2000〜5000万人・ 北朝鮮 1990年代 約300万人・ 朝鮮 17世紀後半 約100万人・ ウクライナ 1930年 約1000万人・ アイルランド 1847年 100万人以上・ インド 1770年 約1000万人、1800年〜1825年 約100万人、1826年〜1850年 約40万人、1851年〜1875年 約500万人、1876年〜1900年 約1600万人、1943年 約300万人・ ロシア 1932年500〜700万人、1941年70万人 などです。 死者のあまりの多さに調べていくうちに感覚がマヒしてしまいます・・・ 記録に残らないもっと古い時代のものや、規模の小さなものは当然、もっと沢山ある事でしょう。 各時代に生きてきた人々はただ呆然とするだけでなく、当然、さまざまな対策も行なってきましたが、 非常時に食用とする事が出来る“救荒植物”をまとめた本も多数出版されています。 以下は主なもので、その他にもまだまだあります。 ※前の記号は、私が勝手に同じ流れ(系統)と思われるものに付けて見ました。 ★「荒政要覧(コウセイヨウラン)」 中国(明):兪如為 1607年 ◆「救荒本草」 松岡悠庵 1716年(享保元年) ★「民間備荒録(ミンカンビコウロク)」 建部清庵著 1755年(宝暦5年)(刊行年は諸説あり) 「荒政要覧(コウセイヨウラン)」やその他数冊の本も参考にしながら作られた。 上巻は、植樹、食料の備蓄法を、下巻は草木の利用法や解毒法などが記された。 ●「飯粮集(ハンロウシュウ)」 中条春亮・矢尾板安丈ほか12名 1783年(天明3年) 「民間備荒録」に記していないものを書き記し、「かてもの」の元になったと言われる。 125種の植物の利用法から食感まで記されている。 ●「かてもの」 上杉治憲(鷹山) 1802年 (享保2年) 「飯粮集」を元に作られたと言われています。 84種の植物が記載され、実際に使いやすい様に工夫されていました。 □「衷葛録」 大蔵永常 1824年(文政7年) ★「備荒草木図」 建部清庵著 1833年(天保4年) 文字の読めない庶民にも分かりやすいように104種の植物の絵や料理法などが記された。 ▲「救荒食物便覧」 伊藤圭介 1836年(天保7年) ■「救荒便覧」 遠藤勝助 1837年(天保8年) 飢饉に関する心得や戒めの他、食用となる植物が絵入りで記された。 ☆救荒本草啓蒙 小野寳、職孝 1842年(天保13年) ☆救荒野譜啓蒙 小野寳、職孝 1843年(天保14年) ▲「救荒本草略説」 賀来飛霞 1850年(嘉永3年) 食用植物の調理法が記された。 ▲「救荒植物集説」 伊藤圭介述・賀来飛霞記 1884年(明治17年) 自著の「救荒食物便覧」に賀来飛霞やその他の本の情報も取り入れて作られた。 123種の植物について特徴や調理法などが記された。 後日、「文部省報告官報」として刊行された。 ○「草木谷庵の手なべ」 石川理紀之助 1898年(明治31年) 救荒食の調理法が記されている。 この中では、上杉鷹山が刊行した「かてもの」が一番有名でしょう。 上杉鷹山自体が、米沢藩を再生させた名君としてとても有名だからです。 これらの本はとても興味があるのですが、恐らく素人には読めない部分が多い&買うとなるととても高価!なので、ネットで紹介されている情報を参考にさせてもらっています。 また、現在出版されているいろいろな野草・山菜の本にはこれらの本から情報を得て受け継がれているものも多く、わざわざ漢文のような難解な本を紐解かなくても凡そは大丈夫です。 ただ“凡そ”とは、現在出版されている本は現代人が普通に食べれる食材を扱っているものが殆どで、生死を分けた時に味など度外視して食用とされたものは含まれないためです。 いつか、それら究極の食材にも挑戦する時が来るかな? 少しずつ調べて載せて行こうと思います。 飢饉の最終段階に食べられたとされるもの: 稲の若い葉や穂の他、根やワラまでも利用されました。 その他、野菜類などはここでは省略・・・ 梅の葉、桃の葉、オミナエシ、イヌタデ、アケビの花、クルミの花、ツツジの花(種により毒)、ヤマブキの芽、ササの実などは、今の私の感覚ではそれほど食べ難いとは思えません・・・ アケビの芽も含まれて居ましたが、現在でも“木の芽”として売られるほどに美味しく有名になってます。 その他、カタクリ(山菜)やスギナ(まれに野草・山菜の本にある)もあります。 今の私の感覚で、食用とするにはレベルが高いと思われるものは・・・ ウルシ(かぶれる)の実、からすうりの根、ばらの根、ソテツ(毒)、ヒガンバナ(毒)、テンナンショウ(毒)、オニドコロ(毒)、やどりぎ(毒)、松の皮 以上です。 安易に食べると後遺症を残してしまう危険なものも含まれます。 これが食べれるのか・・・と思っていたら・・・なんと、松皮餅と言う・・・ まさに松の皮を削いで作る餅が、名産&販売されていました。 一度食べてみたい・・・ 松皮餅。 2016年2月。 ついに・・・ようやっと・・・松皮餅を作ってみました・・・しかも、美味しい!! 今回は毒成分の無いものでしたが、機会があれば、毒のあるものも挑戦・・・するかな!? カラスウリ煎餅。2019年11月。 カラスウリの根からデンプンを取って煎餅にしてみました。 まだ僅かにエグ味を感じましたが、十分美味しく頂けました。 気になるならば、もっと晒せば良いだけ・・・ある所には大量にあるので、非常食として十分使えます。 ヒガンバナ湯。2020年5月。葉の枯れる春に大きくなった球根からデンプンを取りました。 今回は超シンプルに、クズ湯ならぬヒガンバナ湯に。 この超ソフトできめ細やかな食感・・・美味し過ぎる♪ やってみて分かったのは、ヒガンバナの球根からデンプンを取るのは簡単だったと言う事。 非常食として日本各地、あちこちに植えられた理由が分かった気がしました。 バラの根。2021年1月。 救荒食の情報を漁っていると、時々出て来ていました・・・バラの根。 料理法は、少しでも柔らかくなるように・・・水気のある煮物に。 いざ!! ・・・食べる前から分かってました・・・ほんと硬い!! 喉に刺さるほどに・・・ 残念ながら・・・ただの1本も飲み込む事ができませんでした。 これはどうやって食べたのかほんと疑問。 ミゾソバとメリケン粉の代用団子。 鉄道草(ヒメムカシヨモギ)の味噌和え。 ぎしぎし(スイバ)の油酢和え。 戦後の広島市での記事を見つけました。 広島市役所前の麦畑で収穫に忙しい親子 敗戦後の食糧不足は、言い尽くせないほど深刻だった。市民は食料の調達に明け暮れ、食べられるものは何でも食べるという毎日だった。これに応えて市保健課 が1946(昭和21)年6月に広島駅前で野草試食会を開いた。そのメニューは、「ミゾソバとメリケン粉の代用団子」、「鉄道草(ヒメムカシヨモギ)の味 噌和え)」、「ぎしぎし(スイバ)の油酢和え」だった。 当時の写真やレシピを知らない&現在の調味料を使ったので、当時よりも美味しくなっていると思いますが、これが、意外と美味しく頂く事ができました。